第5章 ひきがね

Toshiaki Takada
10 min readOct 1, 2021

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(“第4章 別室へ…”)

Mountain View

の apartment に戻ってきた。Norway からの長旅と時差とで疲れ切っていたので翌日は丸一日寝ていた。週明けの月曜日の朝 office に行き、上司の YMさんと後輩TMに事の顛末を話した。彼らにとっても他人事ではないからだ。その日の夕方私は日本にいる S課長に電話をした。Visa の件については遅かれ早かれこうなるのは分かっていたハズだ。私はぶちまけた「S課長、Newark で別室に連れていかれたんですよ! もうこんな仕事やってられませんよ! Visa の話どうなってんですか?」「高田、スマン。。もう少しの辛抱だから」「もう次の入国は Visa なしではできないんです、どんなことがあっても 3月には apartment も引き払って完全帰国します!!」私は emotional になり、言いたいことだけ言って電話を途中で切ってしまった。彼は NTTS 社内の政治と K氏との板挟みで苦労していたと思うが、私は彼の曖昧な答えにかなり腹を立てていた。

Halloween 1995

1995年10月

上司の YMさんが日本の Y部長から受け取ったという email を私に forward してくれた。「当社のアメリカ支店設立は年内にはできる可能性があります。(中略) あとは取締役会、必要なら臨時株主総会を残すのみです。心苦しいだろうがもうすこしではれて米国支店勤務になると励ましておいてください。」いや、心苦しいどころではなくて我々は法律ギリギリの危ない橋を渡っているのだ。何かあった時に罰則を受けるのは我々だ、励まされたところで何のヘルプになるというのだろうか。もし先のことが明確に決まっているのであれば、今すぐにでもここにいる我々を日本に帰して体制を整えたらどうなのだろうか。

その後米国支店設立の詳細が分かった。概要は以下のような話だった。

NTT 横須賀通研の HI研 (ヒューマンインターフェース研究所) が San Francisco State University や College of Marin などの Bay Area の大学とVR (Virtual Reality) の共同研究を計画している。具体的には Internet 上に shopping mall を構築し user は専用 client の画面上で Avatar を操って online shop で買い物をするというものだ。実証実験がうまく行けば規模を広げて本格的な商用化も検討している。 NTT が直接現地法人を作って商売をすることはできないので子会社の NTTS に支店を設立させる。HI研は既に米国に拠点を持って活動しているソフ研(Palo Alto office) には全く頼らず、NTTS の米国子会社に自分達の研究者を出向させ米国で活動させるのだという。さらにカリフォルニア支店勤務を数名 NTTS社内からも公募する。

この news は我々は大いに驚かせそして落胆させた。8月に来た重役陣の出張と確かに辻褄はあっている。それにしても S課長がこの10ヶ月社内でいろいろと動いていたというのにそれはまるで関係なく、より大きな外部の圧力 (札束) によって支店設立に向けて動いたのだ。つまり我々はまるっきり蚊帳の外だった。Y部長の email に書かれていたようにいずれは支店勤務ということになるのかもしれない。しかし設立の経緯を考えると、我々はあくまでも HI研のおこぼれに預かれればいいなという程度だ。我々はソフ研でも居候だが、支店においても冷や飯を食わされることになるのだ。

1995年 11月

NTTS は California 州への登記を完了し米国法人を設立したと伝えられた。あっけないものだ。12月には San Francisco で ceremony と party を計画しているという。我々は複雑な気持ちだった。

これまで我々のプロジェクトは UNIX 版のみで evaluation を行ってきたが実際には一本も売れてなかった。Evaluation ではかなり良い評価はもらうが purchase まではいかない。というのもそもそも software の単価が高いのだ。そこで、editor 部分のみの簡易版として Windows version を開発しようという話が進んでいた。しかし我々米国滞在中の 3人は Windows の developer ではないし、日本にいる社内の誰かに頼むとなると時間もかかる。そこで我々は現地の recruiting 会社に条件を伝え David Wilson という developer を紹介してもらった。彼は以前 Electronic Arts で game developer としても働いた経験があり今は freelance の developer だという。体の大きないかにもアメリカ人という感じの陽気なおじさんだった。

開発は、まず K氏が David に high level で tool の concept と必要な機能などを説明をした。その後 1週間に 1回から 2回程度 Palo Alto office で meeting を行い、すこしづつ機能追加をしていった。彼が office に来るたびにできたところまでの demo を行い、問題があればそこで指摘しまた 1週間後に修正したものを持ってくるいう cycle を繰り返した。もし何か不明な点があれば彼が email を送ってくるので、それに我々は英語で返信した。彼は developer としては Windows にも詳しく program もきちんとできてくるので十分に満足できる人材だったのは間違いないが、彼は元 game developer であり我々が開発している tool のような ITU-T standard の仕様とか概念については全くの門外漢だったため難しい部分もあった。それでもこちらが間違いを伝えると彼はすぐに修正をして持ってくるし、彼の performance には十分満足していた。Visa の件も含め先行きが全く不透明だったが、少なくとも 3rd party の彼と話している方が面白かった。

一方この頃から

K氏との endless な meeting にズルズルと引きずり込まれて、帰宅する時期を逸するということが良くあった(そしてそのために晩飯を食べ損ねるということも良くあった、米国の普通の restaurant は閉まるのが早い)。製品が売れてないので business 戦略の meeting に我々を巻き込むのはやむを得ないところもあるが、彼は椅子に座ったまま目を閉じてそのまま考え込み、私たち3人はそのまま彼が何か声を発するまで何十分もじっと待つというようなことが度々あった。我々は居残り当番をやらされている小学生のような気分だった。

私はこの仕事に対する興味をかなり失っていた。せっかく Silicon Valley に来ているのに (確かにこれはここでしか得られない貴重な経験のような気もするが) 技術的に得るものが無かったら何のためにわざわざ不便な思いをしているのか良く分からなかった。現在の仕事を続けても将来役に立つようには到底思えなかったし、K氏の personality にちっとも魅力を感じることができなかった。彼は NTTS のために何かをやっているというよりは(もちろん彼は NTTS の社員ではないから当然だが) ただ単に彼の研究の正当性を証明するために我々を利用しているだけのように見えた。しかもそのための費用はほとんど NTTS が払わされているのだ。

Lombard Street, San Francisco 1995

1995年12月

DEC が AltaVista という search engine を release した。本格的な full text search 可能なこの service は Yahoo! などの directory service から の大きな paradigm shift だった。また同じ頃 Netscape Navigator の version 2.0 が release された。Version 2.0 は NPAPI の support により Java の plugin などが browser 上で動くようになった。JavaScript などの support もこの version からだ。Web browser の de facto standard から業界を牽引する Netscape の覇権は揺るぎないように思えた (その時点では)。私は Internet が社会の infrastructure になるのは間違いないと思っていたし、web が将来の platform になると確信していた。そして Silicon Valley には次の Netscape を狙おうと人と金が集まってきているのだ。

NTTS カリフォルニア支店の設立 ceremony が San Francisco で行われた。日本からは NTTS の取締役陣、また NTT からも数名 ceremony に招待されていた。Palo Alto office に居候している我々も招待された。しかし、我々はいまだに visa 無しで、支店勤務が正式に決まったわけでも無いので ceremony に参加をしたものの心から喜ぶことはできなかった。Ceremony では初代カリフォルニア支店長に就任する HI研から出向してきた N氏と、同時に現地採用される 3人の engineer が紹介された。現地採用の彼らは一緒に研究をしている大学からの採用なのだろうか、私には全く関わりがなさそうだった。そのあとの Party では N氏に挨拶することができたが、彼は ceremony の中心人物でだったので忙しく歩き回っておりほとんど話をすることはできなかった。また現地採用された engineer の一人 Tim (日系人だったので日本の culture を理解していた) がたまたま隣りにいたので雑談をした。なぜか最近破局した貴乃花と宮沢りえの話になり下世話な joke で彼を笑わせた。私の英語力はそういった joke を言うくらいには上達していた。

Ceremony の翌日

私はいてもたってもおられず N氏に email を送った。「突然の email 失礼します。私は今 visa が無い状態で 1年近く米国に滞在しておりますが可能であれば引き続き米国で software の仕事を続けたいと思います。もちろん私の専門領域は VRとは全く違いますが、カリフォルニア支店でその VR に関わる仕事をやらせてもらえませんでしょうか。」私は Silicon Valley に残って仕事はしたかったが、今の仕事にはいろいろな意味で絶望していたし、自分の skill を上げるために何か新しいことがしたかった。無駄とは思ったが何もやらないよりはマシだ、ダメでも返事がくれば諦めもつく。しかし1週間経っても1カ月経ってもその email に返事が来ることは無かった。

(“第6章 旅の終わり” に続く)

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