第6章 旅の終わり

Toshiaki Takada
11 min readOct 9, 2021

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(“第5章 ひきがね”)

1996年 1月

まともな visa が取れないまま、とうとう 1年経ってしまった。当初考えていた予定とだいぶ違ったことで、私は大きなミスを犯してしまった。1994年の12月渡米する直前に日本で国際免許を取得しそれまで運転してきたが (そもそもそれ自体も問題だという話もあるが)、それはすでに 1995年の12月で expire していた。予定ではとっくに visa の問題は解決して driver license を取れてたはずだが、それらはまったくなおざりにされてきた。最後に日本に帰ったのは 6月だったので、その時に新しい国際免許を取っておけばと思ったが、その時点ではまさかその後半年以上も日本に帰らないとは思ってなかったので迂闊といいって良いのか分からない。また不幸中の幸いと言って良いのか分からないが、実はそれまで 1か月ごとに借りてた Hertz を10月で止め、Avis の mini lease というのを始めていた。これだと最大 11か月まで借りることができたので、私は 10月から半年の lease にしていたのだ。もちろん 12月に国際免許が expire してからは無免許運転だった。しかし私は車を失ったら何もできなくなる (この時代には Uber も Lyft ももちろん無い)。このことを上司の YMさんや S課長に言えばどうにかなったのかも知れない。しかし言ったところで結局 3月まで滞在するという計画は変わらなかっただろうし、私はとにかく帰国までのプロセスをなるべく穏便に済ませたかった。危険だと思ったが運転には細心の注意を払い 3月の帰国まで持ちこたえることにした (事故でも起こせば終わりだったが)。

Somewhere on I-5

1月17日

日本から Y部長が A社との meeting のために Palo Alto office まで来た。今まで 1年以上米国で活動してきたが、今後本当に米国で販売を続けるべきか、双方どのような体制で行くかなどについて話しあうために来たのだ。今まで NTTS 側は S課長も我々も含め決裁権のある人間が A社と直接会ったことはない。その意味で今回の meeting は双方に取って大きな一歩であった。しかし間違いがあっては困るので、今回は professional の通訳を雇った。Meeting には A社社長、K氏、Y部長、S課長、それと我々 3人が参加した。Meeting agenda は以下のようなものであった。

  1. 北米での販売戦略。
  2. 今後 1年間での販売目標(売上額、本数など)。
  3. Use case について。
  4. Light version について。
  5. A社の財政について。

Meeting は A社社長と Y部長が向かいあって座り、通訳の女性は Y部長に近い場所に座った。我々は彼らの table から若干離れた場所の椅子に座っていた。通訳の女性は meeting が始まると持参した note pad に双方の会話を次々に memo していたが、私の座っていたところからは具体的に何を書いているのかまでは分からなかった。しかし英語から日本語、日本語から英語の彼女の通訳を聞いているとかなりの精度で翻訳されているのが分かった。我々の使っている言葉は technology にかなり偏っていたし、それを鑑みるとかなり優秀な通訳だと思った。私は meeting そのものよりも、その彼女の洗練された professional の仕事に魅了されていた。

話し合いは

4時間にも及んだ。A社の財政に関する話の中で、A社の社員を NTTS カリフォルニア支店で雇ってもらえないかという申し出(お願い)があり、その時の A社の財政がかなり苦しいことを表していた。また use case については実は NTT 社内でもこの tool の使用実績がないというのを知って私は腰を抜かした。Y部長はここでは最終決定できないから持ち帰り検討するという日本の伝統芸能を披露し、この場では具体的には何も決まらなかった。A社は NTTS (および NTT) がどれくらい大きな会社か知っているので、とにかく会社を延命するためになんとかお金を引き出そうとしているように見えた。

K氏と A社との関係はあまり思わしくなかった。K氏は A社に一人で行き A社の社長と meeting をしてきたようだが、そこで大喧嘩をしてきたらしい、という話を S課長経由で聞いた。A社は Telelogic 社の SDT を継続して販売できなくなったことで、もはや我々の tool にすがるしかなかった。ところが最初の一本が売れないのだ。大手携帯電話メーカーの M社とかなり長いこと話をしていたがいまだに Purchase Order は来ない。大手の実績があればその use case を持ってほかの会社に売ることもできるだろ。しかしその鶏と卵のような状況で膠着していた。そんな中、A社の社員も何人か辞めていったらしく状況は芳しくなかった。

1996年 2月

L1 visa の取得の準備のために、卒業した大学や今まで関わったプロジェクトなどの詳細を S課長に聞かれた。Visa 申請のための弁護士に渡す書類を S課長が作るためだ。私は 3月に日本に帰国後 L1 visa を取得してまた渡米するという scenario だった。しかし A社の状況、仕事自体の興味、それにこれまでの経緯から私は NTTS に対する忠誠心というものをほとんど失っていたし、L1 visa を取って再渡米というのには全く乗り気ではなかった。

S課長が最後に米国に来てからすでに1カ月以上経っていたが、不吉なウワサが耳に入った。なんとこの3月で S課長が元のソフトウェア研究所に帰任するというのだ、この中途半端な状態のまま。しかしそれだけではなく、代わりにこのプロジェクトを指揮するために K氏が出向してくるというのだ。これには我々は戦慄した。確かに彼が NTTS で主体的にプロジェクトの指揮を執るのがスジが通っているようには思う。しかし、この 1年余りの期間でなんとかここまでやってこれたのは、S課長が社内の調整で走り回っていたからだ (K氏はただ S課長に命令するだけだった)。彼が NTTS に来れば彼が直接話をするから効率が良くなるかと言えば、彼の personality を考えれば (S課長がやってきたようには)簡単にはいかないことは容易に想像がついた。しかしもはや NTTS がこの商売を成功させるかどうかというよりは、NTT が K氏の尻を叩きこのプロジェクトになんとかケリをつけたいという玉砕覚悟の意思表示に思えた。

そして 2月29日

ウワサされていた通り S課長に辞令が発令され、3月末をもってソフトウェア研究所への帰任が決定した。私は一刻の猶予も無いと思った。私は当時付き合っていた日本にいる彼女 (現在の奥さん) にお願いして、日本から Tech B-ing を送ってもらった (この時代にはまだ online で職探しをできるような便利な site は無かった)。そして転職活動を始めた。

1996年 3月

私は Tech B-ing を見ながら、日本でどのような仕事に転職するのが良いか考えていた。私はこの1年を通じて自分の技術力や知識の無さに打ちのめされていた。私の仕事に対する考え方や姿勢は甘かったのだ。しかし NTTS で与えられるだけの仕事をしている限り本当に世の中で求められているものを理解するのは難しいだろうと感じていた。クビも無いが自分の裁量というのもほとんどない、もっとはっきり形の分かる仕事がしたかった。世の中はこの1年の間に Windows 95 が日米で発売され、日本でも商用の個人向け Internet service が始まり、大小数百の Internet Service Provider が雨後の筍のように出てきていた。私は ISP というものがどういう技術を必要とするのか全てを理解はしていなかったが、Internet の infrastructure を構築する中の仕事に非常に興味を持っていた。この成長する産業のど真ん中に飛び込めば、きっと何か得られるものがあるに違いない。私には失うものなど何も無いのだ。そして Tech B-ing を見ているといくつか ISP の求人広告に目が留まった。

Tech B-ing, Feb 1996

その中には So-net と Dream Train Internet の広告があり2つの広告は並んでいた。So-net の広告はカラーでやや堅い感じだった。一方 Dream Train Internet は白黒だったが私はその Dream Train Internet という名前とその広告のメッセージにとても惹きつけられた。社員数が 20人にも満たない startup だというのも良い。英語力があれば尚可というのも良かった。早速私はそこに書いてある人事部の電話番号に電話をかけた。人事部の担当者は私が現在米国にいることを告げるとやや驚いていたが、帰国直後に面接をする appointment を取った。

刻々と帰国の日が近づいていた。引っ越しはすでに手配されており帰国便の ticket も確保した。この1年 3か月の間に山ほど本を買ったし、一時帰国のたびに少しずつ持ってきた荷物もたまっていた。TV なども買っていたがそれは S先輩の家に預けてきた (というかほぼ捨ててきた)。私は日本に帰ったら NTTS を退職するつもりだったが、4月の頭には日本で L1 visa のための面接が予定されていた。

私は帰国までの間 Mountain View の El Camino Real 沿い (El Monte Ave. との交差点) にある Starbucks Coffee に良く通っていた。私は次の仕事に役立ちそうな network の本をひたすら読んでいた。この時代にはまだ laptop で code を書いているような人はいなかった。(ちなみに日本のスタバ1号店が銀座に open したのはこの年の8月だ。)

私はこの1年 3か月で自分の技術者としての未熟さ、人間としての未熟さを痛感した。このまま会社に留まっていれば visa を取得して米国で働くことはできるかもしれない、しかし駐在としてここに滞在し日本人とばかり仕事をしていても、engineer としての成長はあり得ないと思った。それにこの一年で Internet を取り巻く状況は多いに変わり、誰でも簡単に Internet に接続し様々な情報に access できるようになった。とすれば、ここで駐在として不便な思いをしつつやりたくない仕事をやるよりも日本にいる方がはるかに良いのではないか。そう考えると今は日本に帰って自分の技術を磨くことが最善だと確信していた。もちろんこの時点では次の職は何も決まってなかったので、最後の日までそのような思いはおくびにも出さず S先輩や Palo Alto office の皆にも特別な挨拶はしなかった。すでに引っ越し荷物は日本に船便で送られ、apartment も引き払い全ての utility も解約した。

1996年 3月 26日

私は SFO まで自分で rent-a-car を運転し、借りていた車を Avis に返却した。見送りには誰もいない、私一人だった。この1年 3か月、私は米国で何も成し遂げられなかった。私は駐在にさえなれずただフラフラと歩き回っていたにすぎない。NTTS 社員としてここに戻ってくることは無いだろう、しかし私はいつか成長してこの地に戻ってくる。何年後になるか分からない、根拠などないが私は自分自身に言い聞かせるようにその気持ちを反芻した。

私は成田行きの飛行機に乗り込み席に座った、そして窓の外を見ながら初めて SFO に降り立った日のことを思い出していた。様々な思いが去来する。沢山の人に出会い刺激を受けた、楽しいこともあったが悔しいことの方がはるかに多かった。私は心の中で Silicon Valley に別れを告げた。

全ての乗客の搭乗が終わり、飛行機は滑走路に向けて移動しはじめた。まもなく飛行機は離陸し、ぐんぐんと高度を上げゆっくりと機首を北西に向け Bay Area を離れていった。そして私はまた少し涙ぐんでいた。

(“最終章 光に向かって” に続く)

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