第2章 闇の中へ

Toshiaki Takada
14 min readSep 15, 2021

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(“第1章 出会い”)

1994年 12月 19日

私は SFO に降り立った。渡米前に S先輩に連絡しておいたので、空港には約束通り彼が迎えに来てくれていた。彼はいかにも California らしい teal green の Ford Mustang に乗ってきていた。経費で車を lease しているはずだが、どうせ (日本にいる人には)分からないと思って彼も遠慮せずに好きな車を選んだらしい。

彼の車に乗って SFO から 101 を南下し、そのまま NTT のソフトウェア研究所 (ソフ研) の office のある Palo Alto に向かった。Office に着くとまず所長の G氏に挨拶、続けて S先輩と一緒に仕事をしている研究所のメンバーと UC Berkeley の intern を紹介された。最後にプロジェクトの責任者であり私が一緒に仕事をすることになる K氏に会った。K氏は若干はにかみながら挨拶をした。非常に気難しい人物という第一印象だった。そんな私の思いにも構わず彼は早速プロジェクトの概要を説明し始めた。私はつい 2時間くらい前に SFO に降り立ったばかりで jet lag があったのだが、私にはもちろんそれを断る選択肢は無かった。

Palo Alto office, 1995

プロジェクトの概要というのはおおよそ以下のような話であった。

Los Gatos の A社

は Sweden の Telelogic (のちに IBM に買収された) が販売する SDT という SDL (Specification and Description Language) を記述する tool を北米で独占販売していた (いわゆる販売代理店だ)。ところが販売元の Telelogic がそれまでの royalty などについて A社に不利な条件に変更する旨を一方的に突き付けてきたというのだ (良くある話だ、実際の agreement の内容は知らない)。それから A社は同じような SDL tool を作っている会社を探していたが、NTT 研究所が似たような tool (実際にはだいぶ違った)を作っているという話を聞きつけ NTT America に contact した。NTT America が研究所に問い合わせると、その tool の研究開発に直接関わっていた K氏がたまたま UC Berkeley に社費で客員研究員として駐在していたので彼に contact した。NTT/K氏としても研究成果を商品化できるまたとないチャンスである。K氏は A社に赴き事情を聞くことになった。A社としては将来的に SDT の代わりに売れる商品を開拓したかった。K氏は事情を理解した上で、これは NTTS で販売すべきと考え NTTS に contact したところ S課長が対応することになった。K氏は北米での販売を可能にし A社に license できるようなものの開発を進めるために S課長に人員を送るよう依頼したという顛末だ。私はその担当 SE として Silicon Valley に派遣されたのだ。

このプロジェクトに限らず研究成果の商品化は研究所の objective の一つであるが、彼らの本業は研究であり paper を書くことである。したがって販売やそれに伴う開発や integration は伝統的に NTTS のような子会社が担当していた。私は細かいお金の流れは知らないが、NTTS が研究所の IP 開示を受ける代わりに販売で得た revenue の一部を royalty として研究所に kick back するというような contract なのだろう。我々にとってはごく普通の話だったと思うが、このような複雑な事情は A社を混乱させた。NTT と NTTS は違うのか? (NTT(株) のソフトウェア研究所とNTTソフトウエア(株)、というのは日本人でもかなり混乱する) NTT は software を直接販売せず、なぜ突然 NTTS が間に入ってくるのか?しごくまっとうな疑問だ。

一通りの説明の後、私が実際に作業をすることになる office に案内された。その後みんなで lunch を食べたが、その時誰かに

「君は高田君のニセモノだな」

と言われた。「そうだ、確かに似ているな」彼らが言いたかったのは Mosaic 日本語 patch で有名な高田敏弘氏 (彼は日本初の web site と言われる www.ntt.jp を立ち上げたプロジェクトにも関わっていた) のことだ。名前もかなり似ているし、風貌も眼鏡をかけた瘦せ型、言いたいことは分かる。しかしあちらは親会社ですでに名前をあげている有名な研究者、一方私は子会社で何も知らない無名の若造。ニセモノというのは言い得て妙、つまり劣化版のバッタもんという意味だ。考えようによっては高田敏弘氏と比較されるというのは光栄なことかも知れない、しかし常識的に考えれば初対面の人に言うにはかなり失礼なことだと思う。彼らの仲間内では高田敏弘氏は旧知の友人であり英雄だが、 私はパッと出のよそ者だ。ニセモノだと言った人も悪意はなかったのだろう、しかし私にはこの introduction はあまり愉快ではなかった。

その日は、予約していた Brookside Inn という motel まで S先輩に送ってもらった。Motel は Mountain View の El Camino Real と交差する 85 の 出口のすぐ横にあった。翌朝 Palo Alto の Hyatt Rickeys の横にある Hertz に rent-a-car を借りに行った。私は当時まだ 24歳だったために、通常の手段では California では rent-a-car を借りることができなかった。なので、あらかじめ日本にいる時に Hertz Japan から Fax で予約を入れており(もちろん Internet 経由の予約などまだ存在しない)、その裏技を使うと25歳未満でも米国の指定の場所で rent-a-car を check out することができた。California の drivers license は持ってないので当然国際免許だ。ただし Hertz では最長 1か月しか借りられないので、この後この手順を毎月繰り返すことになった。Rent-a-car が手に入ったら今度は SSN だ。私はその時点では visa waiver で入国していたが、実は 1994年の時点では workable な visa を持っていなくても SSN を取得できた (その後法律が変わり、今では workable な visa を持っていないとSSN を取得できない)。まだ apartment は借りてなかったので、office の住所を借りてSSN を申請した。

クリスマス

S先輩は NTT America の trainee (NTT America には毎年入れ替わりで trainee が駐在していた) のパーティに誘われていた。私はつい昨日今日来たばかりなので誘われないのは全く問題ではなかったが、K氏はそれを気遣ってか、一人の私を自宅に誘ってくれた。もちろん私には断る理由は無かった。彼は奥さんと 9歳の一人娘の3人で Sunnyvale の apartment に住んでいた。何を食べ何を話したのか覚えてないが、夫婦そろってかなりの heavy smoker で子供の前でも平気でタバコを吸っていたのは強く印象に残っている。California は当時からタバコにはかなり厳しく、office や restaurant はもちろん、building の入り口から半径数m も喫煙は禁止されていた。もちろん自宅で吸うのは自由だが、子供のいる密室で吸うのははっきり言って abuse である。私がタバコ嫌いだということを差し引いてもその彼らの態度には若干失望した。

Los Gatos Downtown, 1995

1995年 1月

年が明けて SSN が手に入ったので今度は銀行口座の開設である。この時は S先輩と一緒に Union Bank に行って口座を開くことができた。そして日本からあらかじめ持参した travelers check 数千ドル分を deposit した。それから apartment は私の渡米前に、S先輩が彼の住む apartment の manager にすでに口添えしており 1部屋確保されていた。勧められるがままに S先輩と同じ apartment の一部屋を借りることになった。家具も勧められるがままに rent の家具を借りた。次に家に電話をひかなければならなかったが、電話をひくために Pacific Bell に電話をしなければならない。Office から Pacific Bell の support に電話をかけ、つたない英語で電話の activate を依頼した。電話機は Fry’s で買った。

だんだんと California の生活には慣れてきた。米国では私も S先輩も独身だったので (NTT の人達はほとんどが家族で駐在していた) ほぼ毎晩 2人で外食し良く話をした。Menlo Park の「ごんべえ」にはほぼ毎週通っていた。ちなみに当時 San Joseミツワは無くまだヤオハンだった。

一方仕事の方は

1週間に1回は K氏と一緒に Los Gatos の A社へ行って meeting をしていた。全く準備もせず渡米したので英会話についていくのはかなり大変だったし、扱っている技術 domain も初めてのものだったのでその点でも難易度は高かった。こちらでは K氏が事実上 supervisor 兼 project leader のような立場だったが、私にとっては S課長が直属の上司だったので A社との meeting の議事録などを逐一 email で 彼に送った。

開発の方は、実は必要な component は元々かなりそろっていた。Backend の command 群は別な 3rd party の I社が開発していた (研究所の IP が詰まった core の部分、ただし NTTS にはその source code を閲覧する権限は無かった)。 (Message Sequence Chart と呼ばれる) Diagramを描くための editor があってそれは NTTS の別な部署が開発していた。その時点で足りないものと言えば、prototype で見たそれらをまとめる統合環境の GUI とcontrol である。Support している platform は SunOS、Solaris、それと HP-UX。私の役割は、それら 3つの platform で動く統合環境の GUI を開発し test し package 化することだった。

目的ははっきりしてるものの、NTTS には曲りなりにも開発プロセスの標準もあったし QA もあった。ここではそういうプロセスを完全に無視してほとんど K氏の指示で作業していた。Release management も無いしバグ管理も tool など使ってなかったのでそういう意味ではかなりデタラメだった。S課長には K氏の指示に従うようにと指令は受けてたものの、この点は当初から不安があった。

Visa について

前述の通り私はその時点で米国で働くための legal な visa を持っていなかった。もちろん visa については早いうちから S課長と K氏が話をしていたはずだが、いろいろと歯切れが悪かった。まず大前提として visa を出してもらうということは米国の法人が sponsor になるということである。ソフ研の駐在陣は NTT America という米国法人の blanket で L1A もしくは L1B で来ていた (恐らくお金は発生していたであろう)。S先輩はというとこの blanket には入れず H1B を取得していた。しかも S先輩の場合はソフ研のプロジェクトで派遣されているために、visa 取得やこちらへの渡航費用など全てあちら持ちだ。私の場合は H1B を取るにしても、学部卒 2年目だったので経験年数的に H1B を qualify しない。とすれば NTT America の blanket に入るか、E visa のどちらかということになるが、いずれにしても費用がかかる。しかも私の場合 NTTS のプロジェクトということなので費用は全てこっち持ちだ。この時点で NTTS がそんなお金をいきなり投資する判断はできなかったろうし、そもそもそのような visa に詳しい法務部門が NTTS にあったとは思えない。歯車が嚙み合わないどころか、歯車さえ無い状態だ。いずれにせよ私のような2年目の平社員には権限もお金もなかったし、この件は S課長に任せておけばなんとかなるだろうと楽観的に考えていた (そしてそれは巨大な間違いだった)。

当時 NTT も含め日本企業が Silicon Valley に続々と office を 立ち上げていたが、とりあえず visa waiver で入国して現地で仕事しながら生活の立ち上げもしつつ(この期間も厳密に言えば gray area だが)、並行して日本で visa 申請を会社任せで処理し、準備が整った段階で日本に帰り visa 取得し正式な visa で再入国するという、そのようなことを恐らくどこの会社もやっていたように思う。私も同じように最初は 3か月滞在して、次の入国の時には visa を取得して帰ってくるのだろうと安易に考えていた。それよりも現地に NTTS 社員がおらずに business chance を逃す方が問題だ、とほとんどの人がそう思っていたのだろう。しかし visa の件は何よりも先に処理すべき問題なのだ。

2月の終わりに

日本のソフ研から部長の後藤滋樹氏 (現: 早稲田大学名誉教授) と坂本仁明氏が Palo Alto office を訪れた。後藤氏は古くから日本の Internet の発展に貢献してきた大物で、この時期の NTT の Internet 戦略を drive していた中心人物である。しかし偉そうな雰囲気は全く無くとても人当りの良い人物だった。坂本氏は例の www.ntt.jp を立ち上げた立役者の一人で、高卒で電話工事技師として NTT に就職したが、持ち前の好奇心と行動力で事業部に異動したあと交換研に渡り、最後は後藤氏に目をつけられソフ研に引き抜かれたという変わったキャリアの持ち主だ。S先輩と私は坂本氏と比較的年齢が近かったこともありすぐに意気投合した。彼は NTT の Internet 戦略の急先鋒として好きなことをやっておりかなり楽しそうだった。今一番 hot な Internet の最前線で働く彼を私はとても羨ましく思った。我々は何度か一緒に食事をし (Cupertino の吉野家にも行った)いろいろな話をした。彼の話にはかなり刺激を受けたが、彼の世界と我々の世界には常に親会社と子会社の大きな壁があった。私は否が応でもそのことを意識せざるを得なかった。

3月

この頃 Netscape 社は version 1.0 の Netscape Navigator を release した直後だったが、他に目立った競合がいるはずもなくかなりの market share を獲得していた。同じ頃に Yahoo! は Venture Capital から funding を受けて法人化し、HTTP は version 1.0 の最初の Internet Draft が publish されたばかりだった。確実に web 時代の足音が聞こえてきていた。Palo Alto office には毎日のように来客があり、S先輩も Silicon Valley の 他の startup との meeting にたびたび参加していた。もちろんこれらの来客も私の仕事とは全く関係無かったが、明らかに日本にいたころよりも周りの雰囲気、入ってくる情報量が違うことを私は感じていた。

生活の立ち上げは一通り済んで、California の生活にも慣れた。仕事の方は自分が興味のある分野かどうかということを除けば順調に見えた。そうこうしている間に 90日の期限が近づき、私は 3月6日に SFO から日本に一時帰国した。

(“第3章 わかれ道” に続く)

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