第1章 出会い

Toshiaki Takada
10 min readSep 11, 2021

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1993年4月

に私は NTTソフトウェア株式会社 (以下: NTTS) で新卒の新入社員として働き始めた。NTTS に決めたのはいろいろ理由があったが、大学 4年の早い時期に何度か会社案内を送ってきて目に留まったのと、地元の会社で実家からとても近く通勤時間がわずか20分で済むこと (大学時代は 2時間かけて通学していたので正直疲弊していた)、それと会社案内に書いてあった「ソフトウェア作りをしないソフトハウス」というスローガン (AI が source code を自動生成するのかも知れない) になんとなく魅力を感じていた (それはすぐに間違いだと気づくのだが) というのが主な理由だった。

入社してすぐ、私は生産支援技術部という部署に配属された。当時 NTTS には大きく5つの部署があり、部署によっては DIPS (Denden Information Processing System)という NTT の mainframe 上で動く software の開発をしており NTT の業務に深く関わっていた。一方我々の部署は親会社 NTT の研究所 (中でも特にソフトウェア研究所)と密接につながっており、主に研究所の研究に基づいた試作品あるいはそれを商品化するような仕事を受注していた。

最初の2か月

の新人研修を経て配属された部署での OJT が始まった。環境は Sun の workstation (SS-2)を host machine として使用し、複数人の user が NCD のX端末で host に接続して作業をしていた。社内全ての workstation と X端末は 10Base-5 の Ethernet で接続されており、network は完全な closed だったが社内で email / newsgroup などを使うことができた (人事情報などは newsgroup に post されていた)。私はそこで UNIX の command や TCP/IP network の(ごくごく)基本的な知識を得ることができ、また vi や Emacs の操作もここで覚えた。当時はまだ一般人が使えるような商用 Internet service は存在しなかったのでこれは非常に幸運だった。

NTTS は NTT の民営化直後の 1985年に設立された 100%子会社で、他の NTT から分社化した会社 (NTT Data のような)とは違い、設立時の事業譲渡などは無かった。正社員は初年度から新卒を大量に採用しており、私が就職したときには設立 8年目すなわち私は 8期の新卒採用だった。設立当初に新卒で入社した社員もせいぜい30代前後だった。一方、部長・課長・取締役等はほとんどが NTT からの出向 and/or 転籍だった。NTTS に限らず、子会社の管理職が出向社員で占められているのは珍しいことではない。我々新卒は4大卒なら担当者3級から始まり → 担当者2級 → 担当者1級 (主任代理) → 設計主任 → 課長代理 → 課長、と 5段階かけて昇進せねばならず、仮に順調に3年ごとに昇進したとして課長になるまでには15年かかる計算だ。気が遠くなった。

1年目のある時

同期の社員が毎週末バンド練習をしているので見にこないかと同じ部署の女の子に誘われた。行ってみるとそれ自体は楽しいものだったが、誘ってくれた女の子がバンド仲間の一人について、彼がどれだけ会社の仕事が嫌いでこのバンドに没頭しているかということを教えてくれた。私は若干戸惑った。私はせっかく就職して、お金をもらいながら学ぶことに多少喜びを覚えていた (少なくともその時点では)。もしそれ以上に没頭するものがあって仕事がそこまで嫌いならば、そこに長居するのは彼にとって時間の無駄のような気がした。私はそういった価値観の違う同僚と一緒にいることに徐々に居心地の悪さを感じるようになり、新卒 1年目だったにも関わらずうっすらと「この会社には長くいるべきではないかも知れないな」と感じるようになった。

そういったモヤモヤした気持ちもあった一方で、会社では 2年先輩の Sさんという engineer が非常に私のことを気にかけてくれて、やがて休憩時間などにつるむようになった。S先輩は新しい技術に常に目を光らせている生粋の engineer で、部署でも社内でも一目置かれる存在だった。私は彼と同じ部署だったものの直属の上司が違ったので一緒の仕事をすることはなかったが、私にとっては運命の出会いと言えた。

最初のプロジェクトは

Lisp を使った document の version 管理を行う研究試作品だった。そこで Lisp に expose したことは自分にとって非常にプラスになった。また、最初の 1年目は残業などもほとんどなくある意味のびのびとやらせてもらった。ところが 2年目になると部署内に 3つの大きな変化が起きた。

  1. ソフトウェア研究所から若手の主任研究員が 4人同時に出向でやってきて課長として赴任した。皆30代前半の働き盛りだ。その 4人はそれまで部署にいた部長達とは違い現役の研究者でもあったので、良くも悪くも頭脳と野心を持っていた(そしてしばしば他の社員との間に conflict を起こしていた)。少なくとも彼らから見て NTTS は動きの遅いもっさりした組織に見えてたに違いない。その中の一人 S課長が我々の上司の上司になった。
  2. 新年度になった直後、私はそれまでの上司の元から外され、部内でも常にデスマーチなあるプロジェクトに投入されることになった。そのプロジェクトは発注元が通信ソフトウェア本部 (通ソ本: 現在の NTTコムウェア) で Oracle の database (Oracle 6, ここで scott/tiger を覚えた) と SQL*Forms という CUI を使った業務アプリを作っていた。実際の作業はというと 、ほとんどの時間は (一太郎では無かったと思うが UNIX 上で動く) ワープロを使っての仕様書などの修正、およびそれらを印刷してフォルダに閉じるような作業が多く、全く creative な仕事ではなかった。
  3. S先輩があるプロジェクトで Silicon Valley に行くことが決まった。ある日 S先輩がニコニコしながらそのプロジェクトについて教えてくれた「まだ秘密なんだが。。」と話を聞くと、研究所が Stanford 大学との共同研究をするために開発要員としての engineer が必要となりそのために入社 4年目の彼が抜擢されたのだ。しかも最新の technology — World Wide Web に関わる仕事だと言う。私は頭を Stormbreaker で殴られたような衝撃を受けた。私は大学時代には全く平凡な学生であり、就職活動でもあまり考えずにさっさと決めてしまったし、同期の連中にはややがっかりしていつ辞めてもいいと思っていたぐらいだ。ところがここに来て Silicon Valley である。そんな夢のような仕事がこんなに近くにあるんだろうか。しかもそれが自分が尊敬する先輩が行くとなると興奮しないわけがない。私はその時初めて World Wide Web という名前を聞いた。もちろん当時 (1994年) World Wide Web を知っている人は社内でもましてや日本国内でも相当限られていた。Silicon Valley という言葉自体もそこまで popular では無かったが、私はたまたま中学時代に買っていたログインというパソコン雑誌に記事が載っていたから Silicon Valley は米国版秋葉原みたいなものだぐらいには心得ていた。バラバラだった puzzle が何かそこで組み合わさりそうな気配はしていた。

その年の 5月

S先輩は万全の準備 (Visa、英会話教室、引越など)を経て Silicon Valley に旅立ってしまった。それまでの私にとっての休憩時の貴重な時間は失われ、S先輩とはたまに社内の email でやりとりをするだけになった。一方私は問題のデスマーチプロジェクトに配属されたために月に 100時間以上残業するようになり徐々に精神を削られていった。私にとって Silicon Valley などはるか 100万光年先の世界だった。

部署では S課長がよく Y部長と喧嘩をしていた。彼は若く野心があったので、なんとかこのダメな組織を変えてやろうと意欲的に活動しており、若い NTTS の engineer に世界の最先端の技術を catch up するようなんとか encourage しているようだった。

その年の 10月頃

S課長は自分の workstation で Mosaic を compile して私に見せてくれた。それは私が生まれて初めて見る web browser であった。Mosaic は当時 University of Illinois の学生だった Marc Andreessen (彼は私より 1歳若い) が開発した事実上世界初の (Graphic を扱える) Web browser だったが、 original は internationalize されておらず、NTT 基礎研究所の研究員である高田敏弘氏によって日本語化の patch が配布されていた。なんのことは無い、S課長は高田敏弘氏とも面識がありその界隈では World Wide Web と Internet は明らかに Next Big Thing だったのだ。

そのころから私は S課長と良く話をするようになった。それからどういう経緯か分からないが、S先輩が行った Stanford との共同研究とは全く別な仕事で Silicon Valley に行くチャンスがあるかも知れないという話が舞い込んできた。S課長は研究所で開発されたというある software の prototype を私に見せ「これを 2週間で C に書き直せないか?」と言った。それは IDE のようなもので frontend は Tcl/Tk、backend の control は Perl で書かれていた。どうやらそのままで販売するには Perl のような source code が見える形式の software の販売というのは NTT 的には問題があったようだ。と同時に、その仕事を研究所から獲得して誰かを Silicon Valley に送り込む既成事実を作ろうとしているようだった。

何がなんだか分からないまま

デスマーチから逃れたい一心で、私はその Perl で書かれた program を無理やり C で書きなおして、なんとか動いているように (見えるように) してみせた。すると S課長はそれを見て大喜びで Y部長と掛け合い、その研究所からの受注を取った上で私を Silicon Valley に送り込むという話を進め始めた。

S課長のゲリラ的な活動によりあれよあれよという間に話がまとまり、とうとう私も Silicon Valley に行くことになった。デスマーチには私の代わりに他の社員があてがわれた。そのことで S先輩に電話をすると「やったじゃないか!」と彼も非常に喜んでいた。彼にとっては一緒に働く研究所の人たちは全て親会社の発注元で腹を割って話せる相手ではない。異国で仲間がいない心細さから来るものも多分にあったろう。私の気分はその時点で最高潮に達していた。

そして、とうとう

私は 1994年12月19日に成田空港から San Francisco International Airport (SFO) に向けて飛び立ったのだった。

(“第2章 闇の中へ” に続く)

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