最終章 光に向かって

Toshiaki Takada
8 min readOct 16, 2021

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(“第6章 旅の終わり”)

1996年 3月 27日

私は日本に帰ってきた。翌日、私は予定していた通り Dream Train Internet のある赤坂に向かい採用の面接を受けた。会社はまだできたばかりで社員も20名いるかいないかだったので、社長と採用担当の人事の 2人に面接を受けた。いろいろな箱や equipment がところ狭しと置かれた倉庫とも区別がつかない会議室だった。そういった雑然とした雰囲気が逆に私をワクワクさせた。私は今まで 1年間ほど米国に駐在していたこと (厳密に言えば駐在でさえないが)、Solaris での開発・運用の経験があること、そして ISP という industry に大きな技術的な興味があることなどを話した。私はさほど緊張もせず自信を持って面接に挑んだ。というのも今まで米国で窮屈な思いをして仕事をしていたことに比べれば、法的な心配無く働けるというのは (当たり前のことだが) とても簡単なことのように思えたからだ。

面接の翌日、(面接にはいなかった) 社外取締役の M氏から電話がかかってきた。彼は非常に力強い声で「高田君さぁ、君いつ来れんの?」と言った。私が現在の会社を退職するには少なくとも1,2か月はかかると言うとそんなこと言ってないですぐ辞めちまえという勢いだった。結局その後なぜか焼肉をサシで食べに行く約束をしてその電話は終わった。しかし事実上の内定をもらったということである。私は米国では他の仕事を探せるような status ではなかったし、少なくとも visa を qualify するほどの能力を持ち合わせてなかった。ところが日本には私の能力を求めてくれる場所があるのだ。私はとても救われた、そして気持ちはほとんど決まっていた。

1996年 4月

私はおよそ 9か月ぶりに NTTS に出社した。S課長はもちろんすでに研究所に戻ってしまっていた。会社の様子はこの1年 3か月でさほど変化はなかったはずだが、私自身がこの間に経験したことと今後のことを考えると私には随分居心地が悪かった。

私とほぼ同じタイミングで上司の YMさんが帰国していた。私は YMさんをすぐにつかまえ話がしたいと伝えた。Meeting room で彼は「話っていうのは、、」と何かを察しているかのような不安な様子で私を見た。私は「いろいろ考えたんですが、6月いっぱいで NTTS を退職しようと思っています。Visa の無い状態で 1年以上も米国で過ごして、仕事の内容もちょっと自分が思っていたようなことができないので、、」と、そこまで話して言葉に詰まってしまった。しかし、HMさんはそこで全てを察し「そっか、分かった。そうだよなぁ。うん、そっか。分かった、俺から K氏には伝えとくよ。あ~でも嫌だなぁ~」彼は頭を掻きながら苦笑いをしていた。彼も本当はこの仕事を放りだしたいくらいだろうが、彼には妻子がいたので私のように簡単に辞めることはできない。私は HMさんには感謝の気持ちしかなかった。その後彼はすでに社内で出向後の paper work に走り回っていた K氏を捕まえ私の退職の意思を伝えたようだった。そして HMさんは私のところに戻ってきて「K氏が高田君と話したいって言ってるんだけど、いい?」私は正直何も話すことは無いと思っていたが、最後だしケリをつけるためにも彼と対峙することにした。

Meeting room に入ると K氏は 1人で座っていた。私はゆっくりと彼の目の前の椅子に座った。彼は初めは穏やかになぜ辞めるのかと聞いていたが、私が「米国でやっていた仕事は私のやりたかった仕事とは違う、私はもっと世の中で広く使われる software の仕事がしたい。」と説明したところ、彼は隠そうともせず不機嫌になった。恐らくどの説明も彼には気に食わなかったのだろう。彼は何か説教めいたことをいろいろ言っていたが私の耳には入ってこなかった。彼には私がなぜ退職したいのか理解できてないようだった、あるいは裏切られたと思っていたのかも知れない。彼はなぜこうもいつも上から目線なのだろう。私は汗をかいていた。気分が悪くなり一刻も早くこの場から立ち去るべきだと思った。彼はしばらく目をつぶって考えたあと口を開き「残念だね、本当に。でも結局高田君は 1年もアメリカにいてちっとも英語が上達しなかったね」と言った。一体この人は何を言っているのだろう? 私はこれ以上話す必要は無いと思って席を立った。

K氏はその後 1週間程度日本に滞在したあとにすぐ渡米した。その短い滞在の間、sales team と米国での販売に関する meeting があったようだが、meeting から戻って来た sales の Hさんが、やや興奮した様子で「冗談じゃないよ。お前たちは子会社なんだから親会社の俺の言うことを聞けばいいって、とにかくそういう感じで全然話が噛み合わないんだよね。やってらんないよ!!」とその時の K氏の様子を話していた。K氏の正確な言葉を聞いたわけではないが私は驚きはしなかった。

4月4日

私は東京のアメリカ大使館に来ていた。Visa interview の appointment は私が帰国する前から schedule されていたので、今更 cancel するのもかえって面倒だと思いそのままにしておいた。もうすでに HMさんにも辞意は伝えてあるし正式な辞表は今月中にも出すが、それと visa 取得は independent な事象だ、害はあるまい。私は大使館の前で他の HI研の研究員 3人と待ち合わせした。私たち4人は一緒に大使館に入り appointment の時間を待っていたが、そのうちの一人が代表で interview を受けただけで終わり、私を含めた他の3人は全く話もせずに approve されたようだ。なんとも拍子抜けだった。

私はその時人生で初めて米国の workable な visa を発給されたが、結局その visa は1度も使うことは無かった。

L1 Visa, 結局一度も使わなかった

私は当時は辞表を提出してからどれくらいで辞めるものか良く分かってなかったので、結局6月末まで NTTS に勤務した。 (というか単にボーナスくらいもらって辞めようと思っていた。)この 3カ月の間に私の代わりに部署から一人私の仕事を引き継ぐ senior engineer が一人 Palo Alto に送られた (もちろん Visa Waiver で)。私はその間、彼とまだ米国に残っている HMさんと後輩TM に引継ぎを行った。私はもちろん渡米はせずに日本にいたので、部署の他の人達は私がなぜ日本にいるのか訝しく思っていたかも知れない。私は退職のことを悟られぬよう、なるべく人と話さず適当にお茶を濁した。

私の退職は 6月21日に社内の newsgroup に post された。私は会社の email が使えるうちに在米時にお世話になった Palo Alto Office の G所長に email を送った。その後聞いた話によると G氏は随分驚いいてたという。K氏には何も連絡してないし何も話すことはなかった。

19966月 28日

最後の日、私は部署の皆の前で最後の挨拶をした。私が退職することを知った同じ部署の N氏 (彼は中途採用の課長代理で、NTT からの出向部長達を相手に meeting でいつも怒っていた。その声は部署中にいつも響いていた。) が私のところに来て「高田君、こんなところに長居しなくっていいよ。若いうちに好きなことやったらいいんだ。」と励ましに来てくれた。また同じ部署の Kさん (社内でネットワークビジネスをやっていて評判が芳しくない) が私のところに来て耳元で「あとで連絡先教えてね」と言ってきた。もちろん教えなかった。

私は横浜の NTTS 本社ビルを後にした。オフィスの外は初夏の日差しがとてもまぶしかった。私は新卒で入ったこの会社を退職して、本当の意味での自由を手に入れた気がした。私は小学校から大学を卒業するまで社会のルールから外れないよう、単に真面目なフリをして生きてきたのだ。しかし学校や勉強が好きだったわけではなく、安全そうな綺麗な道から外れるのが怖かっただけだった。大学を卒業し就職したときに自由を得たように感じていたがそれは大きな勘違いだった。それは小学校からずっと続いてきた同じような舗装された道の延長だった、あるいは大きな Matrix の中でもがいていただけなのかもしれない。私はその中で与えられた役割をこなす単なる模造人間であることに甘んじてきた。そしてこの時自分の意思で red pill を選択し Matrix の外に飛び出ることができたのだ。私は自分の中の何かが音を立ててゆっくりと回り始めたのを感じていた。

(完)

ご拝読ありがとうございました。

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