あとがき — memorandum — 1QQ5
一連のシリーズの中では、本筋と関係無いような話、記憶が曖昧、ダラダラ書いてもしょうがないようなepisode は省略した。この post では、思い出せる限り当時の様子などをつらつらと書いてみたい。まとまりがないのはご容赦いただきたい。
1995 年という時代背景
1995年は世の中にとっても私にとっても大きな turning point だったと思う。社会的にもいろいろな変化があった上に、形はどうあれ初めての海外生活だったのでいまだにいろいろなことを鮮明に思い出せる。
日本
日本では 1月に阪神大震災、3月に地下鉄サリン事件と大きな災害・事件があったが、私はそのいずれの時も日本にいなかった。つまり当時日本にいて実際にそれらを身近で体験した人達と私との間には大きな経験の gap があるし、私にとっての当事者意識というのは若干薄い、もしくは違った taste だ。
当時 Palo Alto Office では日経かどこかの news 速報を Fax で受け取るサービスに subscribe していた。朝日などの日本の新聞の海外版も subscribe していたと思うが、Fax が一番早かった。Asahi.com が始まったのはこの年の 8月くらいだから、日系企業の海外拠点ではこのような Fax による news 速報のサービスはかなり重宝されていたのではないだろうか。
阪神大震災に関しては、この Fax サービスによって送られてくる速報で毎日死者の数が増えていったのを見て大変なことが起きているなと感じていた。TV では日本の news を流す local の channel があるにはあったが、前日の放送を夜の限られた 2時間くらいで放送するので、半日くらい情報が遅れていた。
当時はまだ NTTS 社内では(というか世の中の 99% 以上の) 仕事で Internet に access する必要が無かったし、access したところで仕事に役立つような何かができる (例えば online の document を読むなど) ことはあまり無かった (今考えるといったいどうやって仕事してたのだろう)。また NTTS 社内には休憩室にさえ TV など置いてなかったので、外の状況を知るという方法はかなり限られていた。そのような状況で、地下鉄サリン事件が起きた。日本では早朝の通勤時間、米国西海岸では夕方に、どういう経緯か忘れたが事件のニュースを耳にした私は日本の NTTS の友人にそのことを即座に email で送った。当然日本の NTTS 社内でそんなことを知っている人はほとんどいなかったので (本社が横浜で東京の地下鉄路線にはあまり関係無かったというのもあるが) 、それが社内にまたたく間に広がって「高田はアメリカで何やってんだ」と若干話題になったとかならなかったとか。それはともかく、このことは Internet による即時性が日米の距離を克服して news を伝えた (今ならごく当たり前のような)、Internet の可能性と characteristics を示したちょっとした episode である。
米国
アメリカでは、その前年に O.J. Simpson が自身の妻 Nicole (とその友人 Ronald Goldman) を殺害した容疑で逮捕され、95年はその murder case trial の真っ最中だった。TV では連日この trial に関連する news を報道しており、逮捕直前の freeway での car chase の映像を何度も流していた。(ちなみに上の video に出てくる O.J. の友人 Robert Kardashian はあの有名な Kim Kardashian の父親だ)。O.J. は NFL で MVP を取ったこともある人気選手で、日本で言えば長嶋茂雄や落合博満、あるいはカズや中田英寿が事件を起こしたようなものと思えば分かりやすいだろうか。私は NFL はさっぱりだったが、彼は映画「裸の銃を持つ男 (The Naked Gun)」の中で見たことがあったので良く知っていた。映画の character が間抜けで人の良い印象だったので好感を持っていたが、この事件の報道を見て随分見方が変わった。
この trial で結局 O.J. Simpson は (あれだけの物的証拠がありながら)無罪になり、それがまた騒動の火に油を注いだ。私が当時聞いた話だと(間違っているかも知れないが)さかのぼること 1992年、Rodney King に暴行をはたらいた LAPD の白人警官の trial で verdict に納得いかなかった市民が Los Angeles で暴動を始めてかなりの騒動 (死者 63名、10,000人以上逮捕された)になった。そういった background があって起きた O.J. Simpson の trial だったので jury は黒人への有罪を認めるわけにはいかない相当大きな bias があったというのが、私の雑な理解だった。
Cell Phones
私は 94年の暮れに渡米したとき携帯電話は当然持っていなかった。Bruce Willis が NTTドコモの CM に出てたのが私の覚えている最初の携帯電話の CM だが、調べてみるとそれは 91年だった。95年でもまだ携帯電話を持っている人の方がずっと少なかったのではないだろうか。米国でも NTT アメリカに trainee としてドコモから来ていた人が携帯電話を腰につけていたのは覚えているが、それ以外の一般にはまだまだ普及していなかった。私は日本に帰って転職したのを機に携帯電話に加入した、また仕事でも持たされるようになった。そう考えると最初の携帯電話が一般に普及するのにはサービスが実際に開始されてから5年くらいはかかっていたように思う。
Video Games
私もS先輩も video game 好きだったので家で何をやっていたのかと言えば video game をやっていた時間が多かったと思う。私は日本にはスーパーファミコンを持っていたが、渡米の時に持ってくることはできなかったので、こっちに来てから Target で Super NES を購入した。当初は Donkey Kong Country を良く play していた。余談だが、この SNES は日本のスーパーファミコンと中身はほとんど同じハズだがゲームカートリッジの形状が若干違って、同じゲームでもそのまま本体に刺さらなかった。スクウェアの名作クロノ・トリガーも 95年の 3月にスーパーファミコン用に発売されて当時 play した記憶があるのだが、米国版の SNES 用には発売されてなかったので、S先輩の持ってたいたスーパーファミコンごと借りたのかも知れない。いずれにせよこの頃は初期の NES — SNES の流れで米国の game console market は任天堂一強だったのではないだろうか。その時期日本では、94年にファイナルファンタジーは VI が、95年の12月に ドラゴクエストは V が 発売された、そんな時代だ。
ちなみに、日本では94年にセガサターンが発売されていたので、後輩Mが日本からこれを持ってきており Palo Alto Office の TV会議システムに使っていた大画面のスクリーンでバーチャファイターをやって遊んだりした。
1QQ5
この post の title にもあるように私にとっての 1Q84 は 1QQ5 だった。私はあの年の米国での経験を通して向こうの世界からこっちの世界に抜け出てきた、というのは言い過ぎではないと思う。私はもはや米国に来なかった現在を想像すらできない。
(完)