第4章 別室へ…

Toshiaki Takada
10 min readSep 25, 2021

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(“第3章 わかれ道”)

1995年 7月

この頃には日本でもいくつかの ISP が個人向けの dial-up service を開始しており、日本でも Internet が徐々に浸透しつつあった。NTTS 社内でも公式の web site を IIJ に hosting するという話で盛り上がっており (この頃は web site を立ち上げるだけで大騒ぎだ) また社員が外部との communication のために public な email address を使うことができるようになった。ちなみにその頃横浜市の web site も運用を始めたばかりで、なんと毎日 1000人もアクセスしているという話だった (笑ってはいけない)。一方この頃 Palo Alto office では会議室の一部屋を改造して TV会議システムを建設していた。これで、日本と米国を直接接続して video 会議ができるのだ (当然動画は over IP で転送していた)。元々 NTT が開発していた system を米国まで持ってきたにすぎないが、人々がやっと dial-up で Internet に接続する時代に研究所は遥か先を走っていた。

私は社会人になってからここまでわずか 2年ほどしか働いてなかったが、自分の将来に疑問を感じ始めていた。NTTS 入社時に説明された時は (当時まだプログラマー35歳限界説が信じられていた) プログラマーから SE になって上流工程をやるのが career path だと言われたし、私も漠然とそうなんだろうなと思っていた。しかし、米国に来てからの限られた時間の中でも code を書いて bug fix してる時間が一番楽しく充実していた。書いた code が動いて問題を解決したときの達成感というのはは他では得られない。それに米国では年齢に関係無くずっと developer をやってる人は沢山いるという話を聞いていた。果たしてプログラマーとして一生やってくのは間違いなのだろうか?

世界を見渡せば

GNU Project の GCC、GDB や Emacs、私が愛用している Zsh や Perl、あるいは BIND や sendmail といった Internet を支えている server software も free のものばかりだ。Web boom の火付け役となった Mosaic も NCSA/httpd も free software だし Finland の学生が Linux という UNIX 互換の Operating System を作っているという話を聞いたのもこの頃だ。当時は server と言えば Sun Microsystems などの UNIX workstation が中心だったが、個人で OS を作るとはどんな天才 (あるいはキチガイ) なのだろうか。私とたいして年齢が違わない若者が世界を動かそうとしているのだ。もちろん我々のように商売で software を書いている人たちも沢山いるが、それらも free software の恩恵なしに仕事ができる人はほとんどいないのではないか。私は Internet は free software と一握りの天才達の力によって支えらていると感じていた。そして今 Silicon Valley を中心にその大きな software のうねりが世界中に広がっているのだ。私はそのうねりの中に飛び込んで software engineer として活躍したいと強く思うようになっていた。しかし Silicon Valley にいながら私はその夢の最も遠いところにいた

1995年 8月

私は25歳の誕生日を迎え、晴れて rent-a-car を California で直接借りられるようになった。同じ頃 Netscape は NASDAQ に上場し Silicon Valley は大騒ぎだった。会社設立からわずか1年 4カ月での IPO という偉業だ。すぐに Netscape は Mountain View に office をバンバン建設しはじめ、Silicon Valley における Internet と software startup の勢いを目の当たりにした。またこの頃 S先輩はそれまでつきあっていた彼女と結婚し、今まで住んでいた apartment から出ていった。そして私たちは一緒に晩飯を食べることはなくなり話す機会もかなり減った。私たちの関係性も若干変化した。

この頃になると上司のYMさんも後輩TMも私の抱えている悩みを理解し、また共有していた。もちろん我々は自分達の業務は理解していたが K氏との関係に悩んでいた。そもそも我々と彼とは、本来会社対会社の対等な立場であるべきである。しかし実際には彼が manager として我々を control し結局は彼が全て決めるのだ。もちろん彼がこの製品のことを良く知っているのだから、ある程度仕方がないと思う。しかし彼の (ある意味天然の) 傲慢さに我々の不満も徐々に蓄積していった。

LA vs SF at Candlestick Park, Aug 1995, Dodgers の先発は野茂英雄投手

S課長も初めに私を米国に送り出した時には、かなり (ソフ研内では、K氏の方が ranking が上なため) K氏のことに気を遣い敬って(professional にふるまって)いたように見えたが、NTTS に対する度重なる要求 (そして社内の調整などは全て S課長がやっていた)にいよいよ堪忍袋の緒が切れたのか「なんなんだアイツは!」と、いよいよ不満を隠さないようになった。

またある時

K氏は製品の quality や技術者のレベルに関して、彼のお気に入りの I社 (backend の component を開発した 3rd party) を引き合いに出し「I社の~さんはホントに凄くて、source code を全部覚えてて、私が bug の report をすると、それはどこのファイルの何行目ですねって何も見ないで言うんだよね。それに引き換え NTTS は全然ダメだね。」というようなことを度々口走っていた。確かに我々は K氏の研究の詳細をそれほど理解もしてないし、software の quality にも問題はあるだろう。しかし我々の問題を我々の問題として指摘されるのはともかく、我々の全く知らない第三者と比較されてダメ出しされるというのはどうなのだろうか?

8月下旬

Microsoft から待望の Windows 95が発売され米国は空前のお祭りだった。同時に Internet Explorer 1.0 が Windows に bundle され browser 戦争がひっそりと始まった。ちょうどその頃、日本から NTTS 社長を含む重役数名が San Francisco 周辺の西海岸の視察に来るという話を伝え聞いた。NTTS の米国支店設立というウワサもあったが、主な目的は我々とは直接関係が無いようだった。支店設立となれば visa の件も解決に向かうのだろうか、しかし我々には彼らの出張の詳細は知らされなかった。NTTS 重役一行は 8月22日から 3日間の間に、Burbank、San Francisco、それと North Bay の Mill Valley でそれぞれ meeting をしたあと、最後の日の夕方に Palo Alto Office の G所長への挨拶のために立ち寄った。もちろん我々も重役陣に挨拶したがうわべだけの会話に終始し、visa の窮状をうったえられるような雰囲気ではなかった (そもそもここで我々が言わなくても Y部長と S課長が話をしているはずなのだ)。

NTTS 本社(と私の所属する部署)では、いまだに我々のこの製品を本格的に米国で販売するかどうかで迷っているようだった。それもそのはず、そもそも我々の誰一人として米国での sales の仕方を知らないし、英語が得意な人材が豊富なわけでも無い。A社というのもどういう会社か良く分からない上、K氏の言うなりでここまで来ただけで本当に我々に benefit があるのだろうか? しかも、今まで何度か米国内の CASE tool の showcase に出展してきたが、実はかなり費用は NTTS が負担していたはずだった。ところが (A社が)さらにお金を寄越せと言っている。販売をするにしても A社が partner である必然性は? そのような会話が Y部長と S課長との間でやりとりされていた。

Oslo, Norway 1995

1995年 9月

私は Norway で行われる SDL に関する conference に出るように命じられた。その conference には K氏と A社の社長も参加した。

前回入国時に B1 visa で入国したものの、ここまで waiver も含めて9か月米国で過ごしていた。さすがに次回は immigration で呼び止められるのではないかという不安があったので、S課長に相談したところ手紙を用意して行こうということになった。その手紙は NTTS の letter head に「私はあくまでも NTTS という日本の会社の employee であり、A社との business meeting のためだけに来ている」という内容が英語で書かれていた。前半は真実だが後半はかなり微妙だ。しかしその時点でできることはそれぐらいしかなかったし、不安は全くぬぐえなかったがその手紙を携えて Norway の conference に参加した。9月24日 私は生まれて初めて大西洋を渡った。日米間の flight と違い米欧間の flight にはアジア人がほとんど乗っておらず、周りの強い視線を感じた。

1週間の予定を終え

9月30日、Norway からの帰路 Newark 経由で米国に上陸した。私は B1 visa の stamp の押された passport を immigration で入国審査官に見せた。審査官は computer の画面で何らかの情報を確認し、即座に私に別室に行けと命じた。恐れていた最悪の事態になったと思った。私は生まれたばかりの小鹿のように震えながら、別室に向かい入国審査官の質問を受けた。私は passport とともに持参した手紙を提出した。喉はカラカラに乾いていた、目は充血していたに違いない。私は喉の奥からなんとか声を絞り出し、あくまでも business meeting が目的である旨を伝えた。入国審査官は手紙を一瞥し computer の画面を見て数十秒考えたあと、ゆっくりと低い声で「この目的で来ているのなら、君は workable な visa を取得しなければならない、、B1 visa はそのためのものでない。次回入国するときには workable な visa を取得してくること…」と言い、私の passport に大きな赤い stamp を押した。

私はかろうじて強制送還を免れ米国に再入国できた。最悪の事態は逃れたものの私の在米 status には明らかに yellow flag が付いた、それも限りなく赤に近い yellow だ。私はそのたった 5分程度のやり取りですっかり憔悴し Newark 空港の椅子に文字通り崩れ落ちた。次の飛行機を待っている間、私は呆然とし自分自身の今後のことを考えながら涙を流した。いったい私は何をやっているのだろう。喜び勇んで Silicon Valley に来たもののまともに働くことも許されない、それどころか今度出国したら 2度と戻って来れないかも知れないのだ。いくら会社命令とは言え、自身の身に危険を感じるような業務を続けなければならない理由などあるのだろうか? 私はこの時、私の中で何かが切れたのを感じていた。

(“第5章 ひきがね“ に続く)

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