第3章 わかれ道

Toshiaki Takada
11 min readSep 18, 2021

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(“第2章 闇の中へ”)

3か月ぶりに日本に一時帰国

した私は仲の良かった同期のグループと飲みに行った。米国ではほぼ毎日 S先輩と食事をしていたし仕事では K氏と一日中一緒という生活だったので、気の置けない同僚との飲み会で久々に refresh した。その席で一人の女の子(彼女は今でも数少ない当時からの友人であるが)に「私たちは日本語でいいけど、高田君だけ全部英語で喋ってね!」と言われた。私はカチンときた、と同時に落胆した。似たようなことは米国 (あるいはそれ以外の英語圏)にある程度滞在したことのある人なら経験があると思うが 1、2年程度の滞在で英語がペラペラになるわけがないのだ。ましてや私は日本人ばかりの office に 3か月居候した程度だ。私がこの時点で自信を持っていた英語と言えば、Burger King で “For here or to go?” と聞かれた時に “To go” と答えることぐらいだった。確かに私は米国に行ったことで天狗になっていたかも知れないし、それが彼らの気に障ったのかも知れない。もちろん彼女のその一言は悪気の無い冗談だったと思うが、私は少し傷ついた。

Santa Monica 1995

1週間の日本滞在中私は親知らずを抜いた。私は米国では健康保険も持っておらず (当然だ) 海外旅行保険のみで渡米していたので何かあったらまぁまぁ困っていただろうが、そのような大きな問題にならなかったのは不幸中の幸いだった。私はほとんど休む間もなく 3月13日に米国にトンボ返りした。一方 NTTS 社内では visa のために私を A社に出向させようかあるいは NTT America に (trainee のように) 出向させようかという話が浮上していたが、結局何の結論も出ず引き続き visa waiver で入国した。幸い 2回目のこの時も immigration では何も言われなかった。私が再渡米したちょうど 1週間後に東京で地下鉄サリン事件が起きた。

1995年 4月

日本ではオウム (サリン事件の後もいくつかのテロがありまったく収束する気配は無かった)、米国では Oklahoma City Bombing(168名の死者を出した当時最大の米国内テロ) と日米どちらも大騒ぎだった。しかしこの頃はまだ asahi.com さえ無かったので、日本の newsgroup を読むか友人から送られてくる情報を見るかというのが日本からの最速の情報だった。日本語の TV はあったが半日くらい遅れていた。

最初の 3か月と同様に私はほとんどの仕事の時間を K氏と過ごし、毎週 A社を訪問し、また何度か国内の出張を経験した。この頃には基本的な統合 GUI はできており license を生成して binary と一緒に compile して package して evaluation をする会社のために送る、というような作業をやっていた。ちなみにこの時代には専用 web site はもちろん FTP server など存在しなかった (技術的には存在したが、NTTS が public にそれを持ち運用するような体制は無かった) ので、基本的には software package を DAT tape に書き込んで、その tape を FedEx で customer に送るということをやっていた。私はこの仕事の面白さを見出すのにかなり苦労していた。私がやっているのは sustaining engineer であり release engineer であり support engineer であった。せっかく Silicon Valley にいるのに新しい技術に触れる機会は無い。もちろんそれは最初からある程度分かっていたことだが、私は web や Internet と直接関わる software の開発をしたいと思っていた。

K氏と私はあらゆる意味で釣り合ってなかった。彼は親会社の社員であり、年齢でも私より一回りは上だった。彼は大学院を修了して最高の研究環境で 10年以上過ごし、最も最近では UC Berkeley で客員研究員をやっていた。私は彼のやってきた研究内容はさっぱり理解できなかったし、彼は当然全てを熟知していた。彼と対等にやりあうにはいろんな意味で経験が足りなかった。また彼は本来の上司ではないので、彼に直接指示されている状況にやや釈然としないものもあったし、彼の personality に馴染めなかった私はたびたび S先輩に愚痴をこぼすようになった。S先輩によると私がまだこちらに来る前に Palo Alto office の G所長と K氏が激しい口論をしているのを見たことがあるというのだ。当時ソフ研は2つのグループに分かれており、G所長をはじめ S先輩の所属する研究プロジェクトなど K氏以外の全てが後藤滋樹氏率いるグループ所属で、K氏だけは別グループだった。そういう意味では K氏がこの office にいるのもある意味居候のようなものだった。そういった軋轢もあり K氏は NTT 内部でも若干孤立しているように見えた。私はどちらかというと業務上は K氏側寄りの立ち位置だが、気持ちとしては全く反対側にいた。

NTTS.com の立ち上げ

それまで email はずっと NTT America の domain に居候していたが、S先輩が ntts.com domain がまだ誰にも取られてないことに気づき (この時代はまだまだ domain の取得で苦労するようなことは無かったが、ntt.com は National Tech Team という良く分からない会社に先に取られていたので NTT America は nttam.com という domain を使用していた) 本社に確認する前にサッサと取ってしまった。彼は日本にいる彼の上司にその旨を伝え一応の了承を得た。それから我々は研究所の人の help を借り (我々は public Internet での server 運用経験は皆無 だった) ntts.com の DNS server の設定をし、sendmail で email を送受信できるようになった。Server 自体は office にあり (Palo Alto office は T1 の専用線で Internet に接続されていた) まだ居候だったが、少なくとも NTT America の居候ではなくなったので多少自由を得たというのは大きかったし、何よりも今までやったことのない server 運用には満足感があった。私にとっては限られた新しい技術を身につける機会でもあった。

Yosemite Valley 1995

5月のはじめ

どこで見たのか、私はふと Sun が HotJava という新しい web browser を発表していることに気づいた(このころはまだ news なども自分で巡回するしかなく、Yahoo! などの directory service を使うのが主流だった)。私は軽い気持ちで package をdownload して workstation に install した。その HotJava Browser を起動していくつかの demo を見ていると、その中に画面の中をボールか何かが bounce している animation があった。これは一体なんだ!? 私は興奮した。すぐに S先輩を呼んでその画面を見せたところ、私と同様に興奮していた。どうやらその animation は Sun が開発した Java という新しい言語で書かれており、Java は browser 上で動いることが分かった。今までずっと Mosaic か Netscape Navigator で web を browse していたが、そのような dynamic な web は見たことが無かった。私は自分が最新の technology に触れたこと、また自分がその技術に誰よりも早く気づいたことで興奮していた。一方 K氏は我々の騒ぎには全く興味を示さず、むしろあまり面白く思ってないようだった。何しろ Java だとか web の technology は彼のプロジェクト(というか私の業務)には一切関係ないからだ。

S先輩は元々オブジェクト指向好きだったのもあり、それ以来すっかり Java に夢中になってしまった。私も Java の言語 specification や sample などで勉強し、なんとかこれを仕事にできないだろうかと考え始めた。私はまだ C++ さえ良く知らなかったが、すでに Java 教に入信していた。S先輩はそのころ Stanford との共同研究とは別に、web browser を使った groupware の研究開発プロジェクトにも参加するようになっていた。そのプロジェクトは日本にいる別な研究所の人たちとの研究で member は当初日本にいたが、この頃 3名の研究員が Palo Alto の office に赴任してきた。そのプロジェクトも当初は別の言語で開発の予定だったが、この boom に乗って Java で開発するような話がもちあがっていた。

5月の終わり

NTTS から私の仲間として同じ部署から入社 8年目の YMさんと、私の 1年後輩 TMが Palo Alto office に送り込まれることになった。S課長が部内で口八丁手八丁で調整し Silicon Valley に人員追加が承認されたということだ。しかしこの 2人を引き抜いたために、抜かれた方のプロジェクトの manager はカンカンに怒っていたようだが S課長は全くお構いなしだった。いずれにせよ、それまで K氏と 2人きりで仕事をしてかなり stress が溜まっていたのでこれに私はかなり救われた。YMさんはこちらで私の上司になり、PM として K氏との間に入ってくれたのでその点でもかなり助かった。しかしながらこの 2人の visa も waiver のまま、本来一番大事な問題は常に後回しだった。いったい S課長と Y部長はどう思っているのだろうか? その点を除けば Palo Alto office にいる NTTS 社員は私を含めて 4人に増えて多少は心強くなった。K氏を除いた他のソフ研の人たちは少なくとも親会社ぶって威張るようなことは無かったし、良い意味で professional だった (もちろん S課長とソフ研の関係が良かったというのもある)。

この頃 Palo Alto office ではすでに10名以上の人が働いていた。

世の中は確実に進んでいる

と感じていた。S先輩の仕事は Java などの最先端の technology をふんだんに使いかなり楽しそうだった。そもそも研究所が研究所のプロジェクトとしてやっている仕事だから最先端の技術を使うのは当然だ。一方私の仕事はどのように転んでも、そういった流行りの technology を絡めてできるようには思えず stress はたまる一方だった。私はなんのために Silicon Valley に来たのだろうか?私は S先輩に憧れて Silicon Valley まで追っかけてきて、一緒に同じように最新技術を追求するつもりで来たはずだったが私たちの間には越えられない大きな壁があった。坂本氏などずっとずっと先のもっと大きな壁の向こうだ。そして visa の件は相変わらず進んでなかった。

そうこうしているうちに 6月になり、私は日本にまた一時帰国しなければならなくなった。さすがに 3回連続で visa waiver はマズイということで、S課長と相談の結果、今回は B1という visa を取得して行こうということになった。B1 visa は短期商用 visa と呼ばれるもので、最長 6か月延長して最大で 1年まで使えるという話だった。しかし正式な work permitである L や H と違い限りなく曖昧な visa だ。不安が無いといえば嘘になる。それでもそれ以上の選択肢が無かったので、私は御徒町にある NTT トラベルまで出向き visa 取得のために passport を預けてきた。Visa は数日で発行され、stamp の押された passport を持って 7月に 3回目の米国入国を果たした。この時も SFO の immigration では何も言われなかった。

(“第4章 別室へ…” に続く)

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